Month: 11月 2017

男の赤ちゃん

聖書のみことば:ローマ3:22-26

男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。—ルカ2:7

新聞に目を引く一面広告がありました。紙面の上の方は空色で、そこに星の輪郭が描かれていました。中央には「男の子が生まれた!」とあり、下にはルカ2章11節の「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」というみことばが印刷されていました。

「男の子が生まれた!」というシンプルなメッセージは、この世に救い主が来てくださったというすばらしい宣言です。なぜ、神はそうされたのでしょう。

それは、私たちに必要があったからです。人は自分の罪のために聖なる神から離れていました(ロマ3:23)。それで、神と再び結ばれるためには、仲裁者となる完全無欠な救い主が必要でした。そのお方を送って、壊れた関係を回復できるのは神だけでした。

それはまた、神のみこころでした。神は、私たちをこよなく愛されたので、ご自分との関係を回復させるために、ひとり子をくださいました(ヨハ3:16)。イエスだけが神の条件にかなう、罪のない唯一の犠牲だったからです(ヘブ9:11-15)。イエスは、神のみこころに従って十字架にかかられました。神はこの犠牲を受け入れ、イエスを死からよみがえらせました。

父なる神は、その愛のために、私たちの必要に応えて御子イエスをくださいました。この無償の贈り物を、今日受け取りましょう。

私たちが生きるために、イエスは死なれた。

一番大切な理由

聖書のみことば:Ⅰヨハネ 4:1-9

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。—Ⅰヨハ4:9

イエスは、神についての私のあやふやな考えを直してくださいます。神が私たちを探し求めに来てくださること、自由意志を与えてくださること、そして何よりも神が愛であることに目を開かせてくださいます。

クリスチャン文化の中で育った人にとって、イエスのメッセージは衝撃的な内容だと言われても、ピンとこないでしょう。しかし、人間と神々との関係を説明する上で、愛を持ち出すのは普通ではないのです。アリストテレスは、「人がゼウスを愛するというのは奇妙だ」と言い切りました。裏を返せば、ゼウスが人間を愛するのも同様に奇妙だというのです。それに比べて、キリスト教の聖書は、愛ゆえにイエスはこの世に来られたのだと説き明かし、「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです」(Ⅰヨハ4:9)と教えます。

ある日、私が空港で搭乗便を待っていた時のことです。当時私は「神に失望したとき」という本を執筆中で、人々の悲しみや疑い、叶えられなかった祈りなどに重荷を感じていました。

たまたま同じ会議に向かっていた友人のカレンは、私の話をじっと静かに聞いてくれていましたが、突然こう言いました。「フィリップは、ただ素直に神の愛を受けたことある?大事なことだと思うんだけど。」

その時私は、クリスチャンの信仰で一番大切なことを忘れていたのに気づきました。イエスの物語は、愛の物語です。そう、それには痛みも失望も含まれます。しかし、イエスが、わが子らを神の国に戻すためにどんな事でもしてくださる父なる神の約束を体現しておられます。

愛ゆえ神ご自身が、人となってこの世に来られた。WALVOORD

祝福の木

聖書のみことば:ルカ1:46-55

力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。—ルカ1:49

事業に失敗した若い夫婦の話を読んだことがあります。ふたりにはクリスマスを祝うお金などほとんどありませんでした。年が明けたら、家を明け渡すことになっていました。それでも、クリスマスを台無しにしたくはなかったので、パーティを開くことにしました。ところが、クリスマスツリーの飾りは、たった一連のライトと、くるくると小さく巻かれリボンで結ばれた紙切れだけでした。

しかし、ふたりは顔を輝かせて「ようこそ、わが祝福の木へ」と招かれた客に言いました。「つらい時ではあったけれど、神は色々な方法で祝福してくださいました。それで、このツリーを神に捧げようと思います。それぞれの紙には、今年いただいた神の恵みが書かれています」と語りました。

この夫妻は、その後もさらなる試練に見舞われましたが、ひたすら主に心を向けました。「祝福の木」とともに祝ったクリスマスは最高に素晴らしいものだったと、よく話しました。「わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました」(ルカ1:47-49)と、マリヤが言ったことに共感できると言います。

どんな困難もクリスマスを台無しにすることはありません。まして、キリストの価値が損なわれるはずがありません。主イエスに心を向け続けましょう。そして、主の祝福をみんなと分かち合う方法を探しましょう。

クリスマスを意味あるものにするには、キリストを第一にすることだ。

最高の知らせ

聖書のみことば:ナホム書1:1-15

見よ。良い知らせを伝える者、平和を告げ知らせる者の足が山々の上にある。—ナホム書1:15

私たちはテレビやラジオ、ネットやスマホを通じて、世界中のニュースにさらされます。その大半は、犯罪、テロ、戦争、不況など悪いことですが、悲惨の闇を貫くように、自己犠牲的な親切、画期的な治療法の開発、和平交渉の進展等の良いニュースが届くこともあります。

さて、旧約聖書に記されたふたりの言葉が、戦火に疲れ果てた人々に大きな希望をもたらしました。ナホムは、冷酷非道な強国に対する神のさばきが近づいている、「見よ。良い知らせを伝える者、平和を告げ知らせる者の足が山々の上にある」と言いました(ナホ1:15)。この言葉は、残忍な圧政の元にあるすべての人々に希望を与えました。また、これとよく似たみことば、「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ…る者の足は」(イザ52:7)は、イザヤの預言です。

最初のクリスマスの夜、ナホムとイザヤが預言した希望は成就しました。天使が、羊飼いたちに「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」と告げたのです(ルカ2:10–11)。

私たちの日常生活の中で最も重要なニュースは、救い主キリストがお生まれになったという最高の知らせです。

ベツレヘムで神の愛がお生まれになった。

村のクリスマス

聖書のみことば:マタイ2:1-11

わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。—ヨハネ10:10

子供の頃の一番古いクリスマスの思い出は、カカオ農場と見上げるようなマホガニーや椰子の木々に囲まれて点在する小さな村々の記憶に遡ります。小学生くらいの子供たちは、両親がクリスマスに着せてくれた新しい服を着て、幼子イエスを探し求める東方の博士のように、村から村へと歩き回りました(マタ2:1-2)。

みどりごイエスは、そこにはおられませんでしたが、村には親しみと善意が溢れていました。クリスマスの午後になると、母親たちが用意したご馳走の入った器を子供らが隣人に届けました。その村では、クリスマスとは、博愛の時を意味しました。

しかし、真のクリスマスの物語が欠けていたのです。楽しさやうれしさが先行して、クリスマスの意味を考えもしませんでした。村に教会はなく、神が「実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハ3:16)というクリスマスのメッセージを伝えてくれる人もいませんでした。当事者抜きの誕生会を祝っていたようなものです。

それとは違って博士らは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」(マタ2:2)とイエスを何よりも探し求めました。そして遂に辿り着くと、「幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて…贈り物としてささげ」(11節)ました。最初に主を見つけ、拝んでから、贈り物をしたのです。

子供にとっても、大人にとっても、真実はひとつです。お祭り以上に、キリストこそがクリスマスの真意です。神の御子は、私たちが「いのちを得、またそれを豊かに持つため」(ヨハ10:10)にいらしたからです。

イエスこそクリスマスを祝う理由である。

クリスマスの歓迎

聖書のみことば:ルカ2:13-20

やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。—イザヤ9:2

サンフェルナンド市は、フィリピンのルソン島、パンパンガ州にあります。古い歴史を持つこの州都では、フィリピンの典型的クリスチャン文化の伝統である「パロル」を用いた大ランタン祭りが開かれます。シンプルな竹や色とりどりの紙とろうそくから、職人たちが匠の技で鮮やかな星型のランタンを創作し、キリストの生誕を祝います。

世界各地に移り住んだフィリピン人は、閑静な住宅街やビジネス街、高層住宅など移住先でも、この伝統のお祭りを祝い続けます。フィリピンの奥地の村落にある質素な高床式住居にさえ、パロルの灯火を見かけます。所変われど、クリスマスの喜びに違いはありません。

遠い昔、田舎のある丘のふもとで、羊飼いたちが「野宿で夜番」をしていると、「たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。『いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように』」(ルカ2:13-14)と聖書に書いてあります。

「パロル」は、捧げ物を持った東方の博士たちを世の光のもとに導いたというベツレヘムの星を表します。富を持つ博士たちも、家さえ持たない羊飼いたちも、主は同様に歓迎なさいました。「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」(イザ9:2)のです。この光は、全ての人々を照らします。

キリストの光は、私たちの暗やみの日々さえ照らしてくださる。

一番嬉しかったプレゼント

聖書のみことば:Ⅰ歴代誌16:8-13

主に感謝して、御名を呼び求めよ。そのみわざを国々の民の中に知らせよ。—Ⅰ歴代誌16:8

修養会で「今までで一番嬉しかったクリスマスプレゼントは何ですか」と質問されると、スポーツマンタイプの男性が、「その答えは簡単だ」と言いました。「僕は大学を卒業したら、プロのフットボール選手にスカウトされると思っていましたが、そうならなくて腐っていました。そして、周りの人たちを傷つけていたのです。それから2年。フットボールを離れてから2度目のクリスマスに、今隣に座っている友人の教会に、クリスマス劇を観に行きました。求道心などありません。姪が出演するので、行ったのです。そのときの気持ちを表現するのは難しいのですが、なぜか、子どもたちの劇の真っ最中に、僕も羊飼いや天使たちと一緒にイエスに会わなければ、と切実に思いました。会衆が『きよしこの夜』を歌い終わった時には、立つこともできず泣いていました。」彼はもう一度、隣の友人をチラリと見て言いました。「彼は、家族を先に帰しました。そして、イエスを心に迎える祈りを導いてくれたのです。あの夜、僕は、最高のクリスマスプレゼントをもらいました。」

このクリスマス、イエスが生まれたという単純で喜ばしい物語から、イエスのことを知りたいという思いが私たちのうちに生まれますように。

最高のクリスマスプレゼントは、イエスから与えられる和解と赦しだ。

ウクライナのクリスマス

聖書のみことば:ルカ2:6-14

いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。—ルカ2:14

ウクライナのクリスマスのお祝いには、数々の素敵な習慣があります。例えば、ベツレヘムの飼葉おけを忘れないために、食事のテーブルの上に干し草の束を置きます。お祝いの中で、救い主がこの世に来てくださった夜の出来事を再現したりもします。クリスマスの祈りがささげられ、その家の家長が「キリストがお生まれになった!」と挨拶すると、家族みんなが、「キリストに栄光を!キリストをほめたたえよう!」と応答します。

このやり取りは、キリストがお生まれになったあの夜、天の軍勢が夜空をおおうように現れた、ベツレヘムの牧場に私を連れて行ってくれます。神の御使いはこう宣言しました。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」(ルカ2:11)。すると天の軍勢が、「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」と応答したのです(14節)。

この一対のメッセージは、クリスマスというこの素晴らしい時に更なる奥行きを与えます。救い主が、神の赦しと永遠の希望を携えて来てくださいました。そのお方は、私たちが全身全霊でほめたたえるにふさわしいお方です。

「いと高き所に、栄光が、神にあるように。」

神の愛の壮麗さは、イエスの到来の内に啓示されている。

インマヌエル(神が共にいてくださる)

聖書のみことば:イザヤ7:10-14

見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル(神が共におられる、という意味)』と名づける。—イザヤ7:14

私の友達は新婚ですが、早く子供が欲しくてたまらないそうです。夫婦で妊活に励み、毎日子供が授かるように祈っています。奥さんはまだ妊娠していませんが、すでに名前も幾つか考えてあるほどです。

紀元前735年、預言者イザヤは主なる神から離れてしまったユダの民に対して次のように告げました。「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル(神が共におられる、という意味)』と名づける」(イザ7:14)。救い主イエスは、誕生より730年も前に名付けられていたのです。

クリスマスの真理は、「神が」、「私たちと」、「共におられる」、という三つのことばに集約されると言われます。クリスマスと言えば、救い主が人としてお生まれになったことだけに目を向けがちですが、より大切なのはその救い主が神であること、つまり、「神が私たちと共におられる」ことなのです。

インマヌエルが表すのは、私たちとは関係ない遥か彼方の王座に神が君臨されているのではないことです。神は、人間の身体に人の衣をまとって私たちのところまで来てくださいました。ヨセフとマリヤが息子の名を呼ぶ度に、神が我が家にいらっしゃることを思い起こさせました。

あなたはひとりぼっちですか。何かを恐れていますか。神を遠く感じ、厳しい目で見張っておられるように感じたことはありますか。クリスマスのメッセージはこうです。あなたはもう、ひとりじゃない。イエスがおいでになった。インマヌエル。今、神は私たちと共におられる。

インマヌエル〜神は私たちと共におられます!