クリスマスのキリスト(救い主)
聖書のみことば:ヨハネ3:16–21
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。—ヨハネ3:16
シンガポールのクリスマスは、雪の代わりに雨がよく降ります。私の家族はクリスチャンではないので、クリスマスを祝いませんでした。しかしある年、まだ子供だった私と兄弟は近所の子供たちとクリスマスプレゼントを交換することにしました。きっとテレビの番組か何かを見て思いついたのでしょう。それぞれの名前を書いた紙切れの入った袋からひとつ取り出して、当たった名前の人に贈り物を用意しました。もらったプレゼントを喜ぶ子もいれば、不満そうな子もいました。でも、プレゼントをもらったこと自体にみんな満足でした。
その頃、私たちは二千年前に完璧な贈り物を創造主なる神から頂いたことを知りませんでした。聖書には、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハ3:16)と書いてあります。私は十代の頃、この贈り物について知り、イエスを救い主として受け入れました。
クリスチャンになって初めてのクリスマスは特別で、今でもよく覚えています。神の完全なる贈り物であるイエス・キリストの降誕を祝うという、クリスマスの真の意味がようやくわかったのですから。神とは、掴み所のない超自然の力ではありません。神は、国も身分も貧富の差も分け隔てなく、私たちをひとりの人間として愛してくださるお方です。主はご自分の命を投げ打って私たち一人一人への愛を現してくださいました。
クリスマスの季節も、いつでも、絶え間なく、私たちがクリスマスの救い主を見つめて歩んでいけますように。
神はベツレヘムで、愛することは与えることである、と示してくださった。
心が帰る場所
ウェストハイランドテリアを飼ったことがあります。これはアナグマの穴に入って行き「敵」と闘うことを目的に育種された小型犬です。我が家の犬にその役割は不要ですが、その本能は残っていました。ある時、裏庭の石の下に何かがいると気づくと取りつかれたように地面を掘り、石の下に2メートルほどのトンネルができてしまいました。
収穫と感謝祭
神は何千年も前にモーセに直々に語られ、新しい祭礼を設けるように命じられました。モーセが記した出エジプト記には、畑に種を蒔いて得た収穫で「刈り入れの祭り」を祝いなさいという神の命令が記されています(出23:16)。
喜び叫べ
以前、毎週通える教会を探していたところ、友人が自分の教会に誘ってくれました。それで日曜日に行くと、大好きな讃美歌が週報に載っていたので、大学の聖歌隊で教えられたように心を込めて思いっきり賛美しました。すると友人の夫がこちらを向いて「大きな声だね」と言いました。褒めてくれたのではありません。それ以来、私は小さな声で歌うように心がけました。また、自分の賛美について、人の目を気にするようになりました。
ヘリコプターの種
私の子どもたちは幼い頃、落ちてくる「ヘリコプターの種」をキャッチして遊びました。それは近所の家にある銀葉楓の種ですが、形がヘリコプターのプロペラに似ていて、春の終わりになると、くるくると回りながら落ちてきます。地面に落ちて新たな木になるためです。
順番を待って
桜の古木が枯れそうなので樹木医を呼んだところ、すぐ手当てが必要だと言われました。妻は木に向かって「順番を待ってね」とつぶやきました。最近、厄介な事ばかり起こっているからです。
傑作を見る
父はアーチェリーの矢筒をオーダーメイドで作ります。本革に自然の動植物を彫り、筒になるように縫い合わせます。父の家で作品作りを見学しました。父は鋭い刃を慎重な手つきで革に押し当て、圧力の違いを用いて質感を作り出します。その後、真紅の染料に浸した布をかぶせて均等な力で革を叩き、光沢を出します。
かくれんぼ
幼い子どもは自分の目を覆って、自分が人に見えないと思ったりします。自分が何も見えないからです。大人にすれば甘い認識ですが、その大人も同じことをしがちです。自分本位な決断をするとき、神から離れようとします。