Month: 3月 2018

老人の知恵

シンガポールの新聞が2010年、8人のお年寄りに人生の教訓について尋ねた結果を含む特集記事を掲載しました。その冒頭に「老化は心身に支障を来すが、一方で豊かにされていくものもある。情緒や社会的知識、すなわち科学者が老人の知恵と定義し、出した能力だ」と書かれています。確かに、年配の賢い人は人生について多くのことを教えてくれます。しかし聖書には、それに気づけなかった王が登場します。

またね

孫のアリッサと私は別れ際に必ずすることがあります。抱き合って20秒くらい悲しみの叫び声を上げ、数歩後退りすると事もなげに「またね」と言って別れます。ふざけた習慣ですが、又すぐ会えると思っています。

子どものように

女の子が礼拝中、賛美の曲に合わせて腕を振ったり、回ったり、足を上げたり、通路で楽しそうに踊っていましたが、母親は制止することもなく微笑みながら見守っていました。その子を見ていると一緒に踊りたくなりましたが、そうはいきません。子どもの頃のように、自由に喜びや驚きを表現しなくなって、ずいぶん長い時間が経ちました。私たちは成長して大人になり、子どもっぽい行為をしなくなります。しかし、だからといって、喜びや驚きに蓋をしてはいけません。

寛大さを示す

友人のアーチィが休暇から戻ると、隣の家の人が庭に柵を立てていました。その柵はアーチィの庭に入り込んでいたので移動するよう交渉しました。しかし交渉は難航し、費用の半分を出すと提案しても、聞き入れてくれません。アーチィは隣人を訴えることもできましたが、結局、甘んじて受け入れました。神の寛大さを示すためです。アーチィは弱虫ではありません。強い人ですが、主にあって寛大であることを選んだのです。

神に満たされるとき

人生で最高のときのはずなのに、どうしたことでしょう。途方もなく孤独でした。大学を卒業してやっと正社員として本格的な仕事に就きました。しかし、大きな一歩を踏み出した感動はすぐに消滅しました。故郷を何百キロも離れた知らない町で、家具も無い小さなアパートに住み、知り合いは誰もいません。仕事は面白かったのですが、孤独で心が折れそうでした。

神には宝

彼の名前はデービッドですが、ほとんどの人は彼を「路上のヴァイオリン弾き」と呼びました。むさくるしい格好の老人でしたが、街頭でヴァイオリンを見事に演奏し、通行人に聞かせていました。聴衆が歩道に置かれた楽器ケースに小銭を入れると、演奏を続けながら、にっこりと会釈して感謝を表しました。

誰がイエスを十字架に

「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。—ルカ23:33

レンブラントの「3本の十字架」を見ると、イエスがかけられた十字架がはじめに目に飛び込んできます。そして、十字架のもとに集まっている群集に目を移すと、神の御子を十字架につけるという恐ろしい過ちに関わっている人々のさまざまな表情や態度に引きつけられます。最後に絵の隅に視線が移ると、影に隠れているようなひとりの人に気づきます。これは、自分の罪がイエスを十字架につけたと悟ったレンブラント自身の姿ではないかという美術評論家もいます。

ある人が次のように言いました。「キリストが世の罪のために死んだと言うのは簡単なことだ。しかし、私の罪のために、と言うのは違う。自分も、ピラトのように無関心で、カヤパのように策略的になれる。兵士たちのように冷淡で、群集のように無慈悲になれる。また、弟子たちのように臆病になる。そう思うとショックだ。彼らが何をしたかではない。私がイエスを木に釘づけにしたのだ。私が、神のキリストを十字架につけ、嘲笑の輪に加わったのだ。」

あなた自身をレンブラントに重ねてみましょう。あなたもそこにいたのです。しかし、十字架につけられたイエスのみことば、「父よ。彼らをお許しください」(ルカ23:34)を思い出しましょう。「彼ら」には、あなたも私も含まれています。感謝しましょう。Our Daily Bread

キリストの十字架は、神の愛と世の罪を最も明らかにしている。

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通話許可ゾーン

いつでもどこでも人とつながれるので携帯電話は便利です。しかし、運転中に電話やメールをして恐ろしい交通事故を引き起こす人が絶えません。そこで運転中の携帯電話の使用を禁止する法律が世界各地にあります。アメリカの高速道路を走っていると、携帯電話の使用が許可されているゾーンを知らせる看板が目につきます。ドライバーはここに車を止め、心ゆくまで携帯電話で通話やメールをすることができるのです。