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誰でも大歓迎

最近、夫婦で旅行中、有名なスポーツ施設に行きました。すると訪問を歓迎するかのように門が大きく開いていました。それで中に入り、手入れの行き届いた競技場に感動しました。ところが、帰りがけに呼び止められ、入場禁止だと冷たく告げられました。招かれざる客と言われ、居心地が悪くなりました。

きらめく

英国の子守歌『きらきら星』の歌詞は、神が創造された宇宙の不思議を語るジェーン・テイラーの詩をもとにしています。また、後半の歌詞はあまり知られていませんが「明るく小さな輝きが闇の中の旅人を照らす」と述べて、星は道案内役です。

助けを求める

夜に友人からメールが来ましたが開きませんでした。大病の家族の看病で忙しかったので付き合っていられないと思ったからです。けれど、翌日、開いてみると「何かできることは無い?」と書かれていました。自分を恥じつつ「いいえ」と書いて、ハッとしました。「聞き覚えのある質問だ、神さまかも…」と思ったのです。

神の燃えさし

火の出ている家から家政婦が末っ子を抱いて避難しながら、5歳のジャッキーの名を叫びました。しかし、ジャッキーは応えません。事態に気付いた通行人が別の人の肩に乗って2階の窓に上がり、子どもを引っ張り出しました。ジャッキーの母スザンナは、この息子は「火から取り出した燃えさし」だと言いました。偉大な伝道者ジョン・ウェスレー(1703-1791)の子どもの頃の話です。

友のために

エミリー・ブロンテの小説「嵐が丘」には、聖書を使って人を批判する人物が登場します。彼は「いつも聖書をあさって自分に都合のいい言葉をかき集め、まわりの者には呪いをまき散らす」のです。ここで誰かの顔が浮かぶかもしれませんが、私たちも五十歩百歩、自分に甘く人に厳しくしがちではないでしょうか。

一方、聖書には、自己犠牲の人たちが登場します。モーセは、民が赦されないのなら、自らの名を神の書から消して欲しいと言い (出32:32)、使徒パウロは、同胞のためならキリストから引き離されても構わないと語りました(ロマ9:3)。人は元々独善的ですが、聖書が光を当てるのは、自分以上に他人を愛した人です。なぜなら、それがイエスの愛だからです。

イエスは「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハ15:13)と言われました。私たちはまだ主を知らなかったにもかかわらず、主は「ご自分の者」を「最後まで愛し通され」(ヨハ13:1口語訳)、いのちを与えるために十字架にかかられました。

このように愛し愛されるために、私たちは神の家族になりました (ヨハ15:9-12)。私たちが人々にキリストの愛を惜しみなく注ぐとき、世界はキリストを垣間見ることができます。

落穂拾い

タンザニアの友人ルツの夢は、首都ドドマの荒れ地を再生して、夫に先立たれた女性たちが自活するための農場を作ることです。困窮した人たちの自活を助けるという彼女の夢の基は、神に対する愛です。また、自分の名前はルツ記に由来しているのだから頑張らなくては、とも思っています。

疲れてしまったとき

正しいことをすると、すごく疲れる場合があります。良かれと思ってしたのに「こんなことをして何になるのか」という結末です。最近、友人を励まそうと、よく祈り、よく考えてメールをしたのに、心無い返事を受け取って、そう感じました。「なぜこんなに誤解されるのか」と憤慨し傷つきました。

兄弟の言うことを聞く

近所に住む兄弟の兄の方が「戻っておいで!お兄ちゃんの言うことを聞きなさい」とどんどん離れて行く弟を心配して叫びました。年上の子どもの方が明らかに、その場の状況を把握しています。

愛の遺産

曾祖母の聖書から紙切れが落ちました。そこには子どもの字で「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」(マタ5:3-4)と書かれ、母の名が記されていました。曾祖母は、聖書のみことばが孫たちの心に刻まれるようにと、よくそれを筆記させていたそうです。