神にお任せする
スマホを使ってチェックインしようと、空港の自動受付機に近づいて気付きました。スマホがありません。タクシーに置き忘れたのです。どうすれば該当の車の運転手に連絡が取れるでしょう。
祈りの姿勢
ジミーは長年の持病のために痛みがひどくなっていました。毎朝、聖書を読んで黙想し、祈りをささげる習慣を続けたいと願っていましたが、右を向いても左を向いても、どんな姿勢で座っても、体がひどく痛みます。ついにやけを起こして椅子を降り、膝を折ってしゃがみ込みました。すると、このひざまずく姿勢が、ひどい痛みを和らげてくれたのです。その後、ジミーは毎朝、ひざまずいて神と時間を共にしました。祈りをささげている時は、心地良いとさえ思いました。
神の道は愛
時間に余裕ができたので、しばらくは可能な限り人に仕えて過ごそうと考えていました。しかし、人の手伝いをしている最中に転倒し、腕を3カ所骨折しました。突然、逆の立場になったのです。いろいろな人が、お見舞いに来てくれたり、電話やメール、カード、花、好物のチョコレートをくれたりしました。祈ってくれたり、食事を持ってきてくれたり、お使いも頼まれてくれました。親族や友人、教会の人たちに、本当にお世話になり、心が温かくなりました。まるで神が「じっとしなさい。あなたは助けが必要です。人を支援するさまざまな形をまず体験しなさい」と言われたようでした。私は、この人たちのおかげで、心から仕えることをさらに知り、そういう人たちの存在や行為を神に感謝しました。
神は追い求められる
デービッド・ウタールは、人や動物の移動に関わる認知を研究する科学者ですが、彼自身は俗にいう方向音痴です。13歳の時、ハイキングで道に迷い2日半さまよったといいます。大人になった今でも変わりません。一方、生まれつき方向感覚が優れている人もいます。この人たちは、自分の位置や目的地までの道筋をイメージできます。他方、ウタールのような人たちは、道案内があっても迷いがちです。
キリストの光の中を歩む
二人の姪は、幼い頃、夕食後に家の灯りを消す遊びをせがみました。私たちは闇の中をお互いにしがみついてキャッキャッと笑いながら、おそるおそる歩きました。彼女たちは闇夜を歩くスリルを喜びました。電灯のスイッチを入れることはいつでもできるのですから。
二人三脚
ジャマイカのダンズ・リバー・フォールズを登るのは爽快な体験です。滝の水は滑らかな岩肌の上を落ちて、やがてカリブ海に注ぎます。ハイカーは、水の流れに逆らって頂上を目指すので楽ではありません。ジェイにはほぼ不可能な挑戦でした。彼は10代の視覚障害者で、視野は針の穴ほどです。しかし、ジェイは絶対に登ると言い、友人のヨシヤは、 ジェイの目になると言いました。そして、手足を置く位置を教えたり、滑りやすい岩を避けるように示したりしました。一方、ジェイはヨシヤの心となり、勇気とはいかなるものかを示しました。
神への感謝
感謝祭の祝日は、カナダとセントルシアでは10月、リベリアは11月初め、米国とオーストラリアでは11月末に制定されています。イギリス、ブラジル、ルワンダ、フィリピンなどにも国家の祝日ではありませんが感謝を記念する日があり、日本にも勤労感謝の日があります。
神と親しく交わる
レイ・プリチャードは著書『高潔な人』の中で、散策中に見つけた墓標の話をしています。長々と賛辞を書き連ねた墓標。しかし、傍らの息子の碑文には、「疑いなく高潔な人物」と、簡潔な一句が刻まれていました。プリチャードは、この短い一句で60有余年の全生涯が要約されることに感動して、「何という真実を物語っていることだろう」と語りました。
キリストを通して近づく
駆け出し記者の頃、「記者証」の威力を実感しました。名前と社名を記した写真つきの証明書は、イベントの際に有名スポーツ選手などにインタビューする特権をくれました。しかし、救われた後、私はスポーツやキャリアが自分の偶像だったと気付きました。神の召しに従って転職し、記者証は失いましたが、祈りを通して神の玉座に近づく特権を意識するようになりました。