Category  |  キリストのために生きる

意外な場所に福音が

最近、ロサンゼルスのハリウッドに行きました。映画やテレビで数え切れないほど見た場所です。ホテルの窓からは、丘の中腹を横切って誇らしげに並ぶ、あの有名な白い巨大な文字が見えました。その時、別の物にも気付きました。少し下の左側に立派な十字架です。ただ、映画の中で見たことはありません。ホテルを出るとすぐ、私は地元の教会の学生たちに話しかけられました。彼らはイエスを伝えていたのです。

自由に生きる

私の出身地テキサスの黒人たちは、6月19日をパレードやピクニックをして祝います。私はティーンになるまで、この祭日の背景である悲しい歴史を知りませんでした。1865年のこの日、テキサスの黒人奴隷は、リンカーン大統領が奴隷解放宣言に署名したことを知りました。しかし、実際の署名は、2年半も前のことだったのです。テキサスの奴隷たちは、解放されていたとは知らずに、2年半の間、奴隷のまま暮らしたのです。

イエスのために戦う勇気

西暦155年、棄教しなければ火刑だと脅されたポリュカルポスは言いました。「私は86年間、主のしもべだが、主に冷遇されたことはない。それなのに、なぜ今、私を救われた王を冒瀆(ぼうとく)することができようか」。私たちも迫害されたなら、この言葉に奮い立つでしょう。

声を使う

リサは8歳の時から吃音(きつおん)に苦労していて人と話すことが苦手でした。しかし、スピーチセラピーを受けて障害を克服すると、人のために声を使う決心をしました。心の悩み電話相談のボランティアを始めたのです。

光を輝かせる機会

金融業を引退したホイットニーが2020年3月、ニューヨークのセントラルパークを歩いていると、十字架をつけた知らない慈善団体のトラックが何台もありました。防水シートやテントを積んでいます。 コロナ患者の仮設病院を設営していると聞くと、彼は出来ることはないかと尋ねました。そして、宗教や政治理念が異なるにもかかわらず、何週間も支援しました。彼は、出会った人は皆、純粋に良い人で、自分の街がどうしようもなく困っていたとき、誰に雇われるでもなく助けに来てくれたと、彼らの行為を賞賛しました。

言葉を超えた

トマス・アクィナス(1225~1274年)は、最も尊敬される神学者の一人でした。しかし、死のわずか3カ月前、生涯の研究の集大成だった『神学大全』の執筆を断念しました。救い主の砕かれた体と流された血について黙想していたとき、幻を見て絶句し、「もう書けない。私が見たものに比べれば、私の著書など藁(わら)のようなものだ」と述べました。

大胆に立つ

イリノイ州のある町では犯罪の40%が家庭内での暴力です。これは教会員にも関わる問題ですが、なかなか言い出せることではありません。そこで、地域の牧師たちが立ち上がりました。暴力の兆候を見抜くための講習を受けたり、この問題に取り組むNPOを支援したりして、見て見ぬふりはしない、主にあって勇敢に立ち向かう、と示しました。「私たちの祈りと思いやり、身に着けた知識や技術、ネットワークは、大きな変化をもたらしています」とひとりの牧師は語っています。

神に頼る

ハリエット・タブマンは奴隷の家庭に生まれ、読み書きができませんでした。残虐な主人のせいで頭部にけがを負い、生涯、後遺症に苦しめられました。しかし、逃亡奴隷となった後は、300人もの奴隷を救出するために神に用いられ、救出された人たちから「モーセ」と呼ばれました。

イエスのように完全

カスリーン・ノリスは、現代の完全主義は、臆病になりすぎて必要なリスクを取れなくなる極めて不健全な心理状態だと言います。一方、マタイの福音書で「完全」(5:48)と訳された単語は、成熟、完成、全人的を意味すると述べます。つまり、「完全であるとは、成長の余地を残しつつ、他人に尽くせる程度に大人であること」と結論づけました。