神の声を聴く
車や路面電車、高架を走る電車の音、慌ただしく行きかう人々の足音や新聞売りの叫び声。20世紀初頭のニューヨーク市は、騒々しい場所でした。ところが、チャールズ・ケロッグという男性が友人に「聞いて、コオロギが鳴いている!」とブロードウェイと34番通りの交差点で言ったのです。
父の宝物
それは何の変哲もないポケットナイフで、古くて変色し、劣化もしています。刃は欠け、持ち手もぐらつきますが、父の宝物でした。私の手に渡るまでは、箱に入れて実家の戸棚に大事にしまってあった祖父の遺品です。私の父は、若い頃に自分の父親と死別しました。父親が大好きだったので、思い出の品を大切にしたのです。
見ようとしない
ヌニェスが滑落した先は、盲人の谷でした。初めの入植者たちの視力を疫病が奪い、その後に生まれた人は皆、生まれつき盲人でした。何世代にも渡って見えない生活をしてきた彼らに、ヌニェスは見えるということを説明しようとしますが、彼らは無関心でした。ヌニェスはようやく谷から出る道を見つけ、村を去ります。峰から眼下を眺めると、岩石流が盲人たちの村に向かっているのが見えました。彼は戻って警告しましたが、人々はヌニェスを無視したのです。これがH.G.ウェルズの『盲人国』という物語です。
キリストにある新しい心
デニスとブロックは幼なじみです。デニスはキリスト者でしたが、ブロックは信仰に興味がありませんでした。大切な友だちのブロックが悪の道を進もうとしていたので、デニスは、預言者エゼキエルの言葉を引いて「神よ、どうかブロックの肉から石の心を除き、肉の心を与えてください」と祈りました(エゼ11:19参照)。神に導かれて活躍してほしいと願ったのです。
神と向き合う
私たち夫婦にとって、2022年は特別な年でした。孫のソフィア・アシュリーが生まれたからです。8人目にして初めての女の子です。息子がビデオ電話をしてくれるとうれしくて興奮します。別の部屋から妻の楽しそうな声がすると、孫娘の姿を見ているのだとすぐに分かります。今の時代は、遠く離れていても、大切な人とクリック一つで対面することができます。
神は待っておられる
牧師が着る詰め襟の服を着ていると、空港などで、「祈ってほしい」と言われることがよくある、とティモシー牧師は言います。なぜでしょう。それは神が慈しみ深いからです。
御心を求める祈り
キリストを信じて間もなかったある日、デボーションのみことばは「求めなさい。そうすれば、与えられる」(マタ7:7)でした。そして、神に求めるべきことは、自分の願いを御心に沿わせようとする意思の力だ、と解説されていました。神の御心が成るように本気で願うことで、それは私の願いとなり、必ずかなえられる。これは私には新しい概念でした。私は御心が自分の人生に成されるように祈りました。
神と人の協力
子どもが授からない友人夫妻が医師に不妊治療を勧められましたが、「祈るだけではダメなの?治療は神のみこころなの?」とためらいました。友人は、神の働きに人がどう関わるべきなのか悩んでいました。
祈り続ける
ミラはパン屋の見習いです。上司にレーズンパンを盗んだと言いがかりをつけられても誰にもかばってもらえません。この一件やそれに伴う減給だけではありません。度々不当に扱われましたが、無力でした。ミラは毎日祈りました。「神よ、お助けください。この人の下で働くのはつらいのですが、仕事が必要なのです」