疑問があっても礼拝する
グループで旅行をしていると、誰かが「まだなの?」とか「後どれぐらい?」と尋ねることがあります。これは、どの国の人とか、大人とか子どもとかにかかわらず尋ねる質問で、そう尋ねる人は早く目的地に着きたいのです。また、患難の中で長くもがき苦しむ人も、いつになれば終わるかと、同じ質問をしがちです。
思い切れない
ラジオ番組の司会者が、いつまでも思い切れないことは何ですか、と質問すると、リスナーが電話をかけてきて、亡き妻との思い出など、家族のことを話しました。また、音楽家や母親になるなど、捨てきれない夢を語る人もありました。誰にでも心にそっとしまっている大切なものがあります。
自分の人生を分かち合う
末っ子が「イヤ!」と泣き叫びました。レゴブロックひとつを手放すことさえ耐えがたいのです。その幼稚さにあきれながらも、この態度は大人も同じだと思いました。多くの人にとって、自分以外の誰かに対して気前よくすることは簡単ではありません。
夜の歌
パーキンソン病に心身をむしばまれていく中、父は自分らしく生きることを渇望しました。心の平安を慕い求めながら、うつ症状に苦しめられました。愛を実感できなくて、孤独感にさいなまれることが多々ありました。しかし、大好きな詩篇42篇のみことばを読むと、孤独感が薄れました。
希望の確かな基礎
信仰の教訓を思いがけない場所で得ることがあります。台所の隅に愛犬ベアが水を飲む器があります。ベアは体重50キロの黒いラブラドール・レトリバーですが、その器が空のときでも、吠えたり、いじったりしません。横に伏してじっと待っています。たまには少々長く待たなければなりませんが、やがて私が台所に来て彼を見つけ、彼の必要を満たすことを理解し、信頼することを学びました。私を単純に信じる彼の姿は、神をもっと信頼すべきことを再確認させてくれました。
ザリガニの苦境
ザリガニ釣りに誘われてワクワクしました。いとこがプラスチックのバケツをくれたので、私はにっこりしながら「ふたはないの?」と尋ねました。彼は釣り竿と餌の入った袋を持ち上げながら「必要ないよ」と言いました。理由は後で分かりました。小さなザリガニたちは、ほぼ満杯のバケツから逃げようとしますが、1匹が縁にたどり着くと、他の1匹がそれを引きずり下ろしてしまうのです。
イエスは後ろにおられる
学校へ行く支度が早く終わったので、途中でドライブスルーに寄ろうと娘が言い、私は「いいよ」と答えました。車をレーンの入り口に入れて「今朝は喜びの種をまく気分?」と尋ねると、娘は「もちろん」と言いました。私は二人分のコーヒーを注文して受け取り窓口で車を止め、「後ろの車の若い人の分も払います」と言いました。娘は満面の笑みを浮かべていました。
無限の愛
ガンガン、カチカチという機械音の中に横たわり、指示されるまま息を止めました。MRIは珍しい検査ではありませんが、私は閉所恐怖症なので、気持ちを何か、否、むしろ誰かに向ける必要があります。そのとき「その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか…」(エペ3:18)というみことばが、機械のリズムに合わせて頭の中で踊り出しました。使徒パウロは、エペソの教会のために祈りつつ、神の愛の広がりが無限であることを強調しました。
万民を歓迎する神
私たちの教会は小学校の校舎で礼拝をささげています。元々は白人の小学校でしたが、黒人の児童も入学させるようにという裁判所の命令を不服として1958年に一旦閉校しました。しかし翌年、再開され、その学校に、現在、私たちの教会で礼拝するエルバが黒人の児童のひとりとして転校させられました。彼女は、安全なコミュニティーや親しい先生たちから引き離され、もうひとりの黒人児童とともに恐ろしい環境に置かれました。彼女は、周りと違うという理由で辛酸を舐めましたが、勇敢で信仰深い、寛容な人に成長しました。彼女のあかしは重々しいものです。誰もが人種や出生にかかわらず神に愛されているのに、この真理を拒絶する世間の人たちのひどい仕打ちを乗り越えてきたからです。