イエスのように愛する
ジョージア州アトランタの駅で、ワイシャツにフォーマルなパンツ姿の若い男性がベンチに座り、ネクタイを結ぼうと悪戦苦闘していました。初老の女性がその様子を見て、夫に手伝うように促しました。高齢の男性が、前かがみになって青年を助けていると、通りがかりの人が3人の様子を写真に撮りました。この写真がネットで拡散されると、多くの人が親切についてコメントしました。
大きな愛
受難週の直前、フランス南西部のスーパーにテロリストが押し入り、2人を殺害し、人質を取って籠城しました。その後、皆を解放しましたが、1人の女性だけは人間の盾に残しました。治安当局のアルノー・ベルトラーメは、人質の身代わりとなり、犯人ともみ合い負傷して亡くなりました。
お話の部屋
北部スペインのある田舎には、美しい友情の形があります。そこには多くの人工の洞穴があります。収穫が終わると、農家の人たちは洞穴の上の部屋で貯蔵物の棚卸しをします。その部屋はいつの頃か「お話の部屋」と呼ばれるようになりました。家族や友人が集まって、自分の話や秘密、夢を分かち合う交流の場となったのです。もし、安全な環境で腹を割った話をしたいなら、そこに行けばよいのです。
変化のゲーム
大学バスケットボールチームの選手、1人は黒人、もう1人は白人が、1963年3月のある夜、人種差別主義者の憎悪をよそに握手しました。米国ミシシッピ州には、白人のチームは黒人のいるチームとは戦わないという不文律があったので、これは州史初のことでした。ミシシッピ州立大学チームは「変化のゲーム」と後に呼ばれるこの試合のため、反対する地元の目を策を講じてくぐり抜け、州を出て、シカゴのロヨラ大学と対戦しました。一方、ロヨラ大学の黒人選手は、遠征中に物を投げられたり、施設を締め出されたりと差別されました。
必要を見て取る
父が亡くなる数日前、看護師のレイチェルが病室に立ち寄り、ひげをそりましょうかと尋ねました。そして、優しく顔を当たりながら「この年代の男性は、毎日のひげそりが大切ですね」と話しました。彼女は父の気持ちを察して、敬意を持って主体的に行動しました。その親切は、高齢の母親のマニキュアを塗ってあげる友人のジュリーと同じです。彼女の母にとって、きれいだということが大切だからです。
喜ぶ愛
ブレンダンとケイティは見つめ合ってほほ笑みました。新型コロナウィルス感染症に起因する行動制限のために、結婚式は大幅な変更を余儀なくされました。出席者は親族25人だけです。しかし、2人の喜びに溢れた姿からは、ここまでの道のりがどれほど大変だったかをうかがい知ることはできません。2人は、愛と平安に満たされ、結婚の誓約と、支えてくださった神に対する感謝を述べました。
燃えるような愛
詩人、画家、銅版画職人のウィリアム・ブレイク(1757-1827年)は、45年間の幸せな結婚生活を送りました。彼と妻のキャサリンは、結婚式の日から彼の亡くなる1827年まで、夫婦で支え合って創作活動をしました。キャサリンはウィリアムのスケッチに彩色を施し、互いに対する献身で、長年の貧乏生活や他の試練を乗り越えました。病の床にあった最期の数週間でさえ、彼は絵を描き続け、最後のスケッチは妻の顔でした。キャサリンは、その4年後、夫の鉛筆を握りしめて亡くなりました。
しかし、わたしは言います
少年時代、「みんながどうかは分かった。でも、うちはね……」と、母によく言われました。日々の同調圧力に迎合しないことを教えたのです。大人になっても、周りに流されがちなことには変わりません。例えば、「前向きないい人とだけ付き合えばよい」と、最近は言われますが、「イエス様もそうするかしら」と、まず問うべきでしょう。
全ての行動において
マルチン・ルターは、1524年、「商人たちには共通の原則がある……得をし欲を満たせるなら、隣人のことは気にしない」と述べました。それから2世紀後。米国ニュージャージー州マウントホリーの仕立て屋ジョン・ウルマンは、自身の信仰を商売に反映させました。彼は奴隷解放を支持し、強制労働を容認する企業の布や染料を使いませんでした。何をするにも、正しい良心のもと、隣人を愛し、清廉潔白に生きました。