Month: 12月 2021

待ったかいがある

ジェームスは理不尽な上司と長時間労働のために転職を考えました。家のローンがあり、養うべき妻子もいるのですが、とりあえず辞めたかったのです。しかし、妻が「もう少しだけ我慢して。神が何をくださるか祈って待ちましょう」と言いました。二人の祈りは、何か月も経ってからかなえられ、ジェームスは良い仕事を見つけました。家族で過ごす時間も増えました。彼は「長かったけれど、神のご計画が、神の時に明かされるのを待っていてよかった」と語りました。

英雄、暴君、イエス

ベートーヴェンは、ナポレオンが民衆を暴君の専制から解放する英雄だと思っていたので、交響曲第三番を「ボナパルト」とするつもりでした。しかし、彼が己を皇帝とするや激怒して、その名前を楽譜から消そうとしました。強くこすりすぎて紙に穴が開いたといいます。

手を差し伸べる

エルビス・サマーズがドアを開けるとスモーキーがいました。空き缶をもらいに来るホームレスの女性です。それを売って暮らしているのです。エルビスは、あることを思いついて寝場所を尋ねると、彼女は、民家の間の狭い空き地に案内しました。彼は気の毒に思い、せめて安全に眠れるようにと簡素な小屋を建ててあげました。そしてクラウドファンディングを使って寄付を集め、いくつかの教会と手を組んで土地を取得し、ホームレスの人たちのためにシェルターを建てました。

強い敵から救い出す

ジョージ・ヴィヤノヴィッチは、2010年、第二次世界大戦中の功績によって、94歳でブロンズスターを授与されました。セルビア移民の家庭に生まれ、陸軍に入隊し、航空兵らがユーゴスラビアで反乱軍に保護されていると聞くと、両親の故国に向かいました。パラシュートで森に下り立ち、兵士らを見つけ出すと、彼らを小さなグループに分け、セルビア人に溶け込むように服装などを教え込みました。そして数カ月をかけて、1グループずつ、森を切り開いた滑走路で待機している輸送機まで徒歩で送り届けました。大喜びで帰還した兵士は512人でした。

大ぜいの群衆

日曜日の朝、私たちはコロナ禍で離れ離れでしたが、喜びと期待を胸に礼拝に集い、ガヴィンとティハナの結婚を祝いました。スペインやポーランド、セルビアなどにいる親族や友人たちも参加できるように、ITに詳しいイラン人の友人が、式の様子を動画配信しました。この工夫によって、みんなは、二人の結婚の誓いを、制約のある中でも見守れたのです。神の御霊が私たちを一つにし、喜びをくださいました。

一致を保つ

デュベリーバプテスト教会は1800年代、持ち寄りランチの骨付きチキンが原因で分裂しました。諸説ありますが、各々の神学に傾倒していて不仲だった二人の男性が、最後の1本をめぐって言い争った結果、一人が、少し離れた場所に第二デュベリーバプテスト教会を始めたのです。感謝なことに、この紛争は後に解決し、その分裂はばかげたものだったと教会の誰もが認めました。

完璧な名前

次男は8月の蒸し暑い日に産まれましたが、しばらく名前がありませんでした。決めかねていたのです。3日間「ウィリアム家の赤ちゃん」と呼ばれ、ついにミカと名付けました。

仲間を必要としたマリア

聖書のみことば: ルカ1:39-56

「マリアは三か月ほどエリサベツのもとにとどまって、家に帰った」(ルカ1:56)

私の「信仰の友」の一人は50歳も年上ですが、年の差を気にせずお互い心の内を分かち合うことができる関係です。絶望と孤独にさいなまれていた頃、私は彼女に「神がいるかどうかなんて、もうわからない。いたとしても、私のことなど気にもしていない。もう信じられない」と、思いの丈を打ち明けました。彼女は黙ってその嘆きを最後まで聞くと、意外な言葉をかけてくれました。

「いいのよ、それで。だって私が代わりに信じているから。私が信じられなくなったときは、あなたが代わりに信じていてね。」

キリストの救いは個人の体験であると同時に、それを越えるものです。信仰は私のものというだけでなく、「私たち」のものなのです。私はその時、共に信じる仲間がいることの幸いをずっしりと感じました。

支え合う仲間を与えてくださる神

神は、御告げを受けたマリアに、エリサベツという信仰の友を与えてくださいました。年は離れていましたが、二人とも神の不思議な御告げを受けて身ごもっていました。「あれは本当に神からのメッセージだったのかしら?」「赤ちゃんは無事に生まれるかしら?」それぞれに疑ったり、不安に襲われたりすることがあったでしょう。マタニティーブルーを経験したかもしれません。一緒に暮らした3ヶ月間、2人は「かわりばんこ」に信じて支え合ったのではないでしょうか。

マリアの夫となったヨセフも共に信じる仲間でした。子どもが生まれてからも夫婦それぞれ「これは本当に神さまの子だろうか」とか「無学な自分たちが、神の子を育てられるのか」と不信や不安に襲われ、落ち込むこともあったでしょう。そんなとき、二人は代わるがわるにお互いの信仰を支え合ったのでは、と想像します。

あなたにも共に信じる仲間が与えられています。もし「私にはそんな人はいない、ひとりぼっちだ」と感じる人がいるなら、どうか覚えていてください。今この時、これを書いている私がその一人です。

考えよう
今のあなたは、代わりに信じてもらう番ですか。それとも誰かのために信じる番ですか。

祈ろう
主よ、あなたが仲間をくださっていることを信じます。その面々を私に示してください。そして立ち直ったなら、仲間を力づける者にしてください(ルカ22:32)。

罪悪感にさいなまれる不倫女性

聖書のみことば: ヨハネ8:1-11

「女とともに、イエスだけが残された」(ヨハネ8:9)

ある女性が不倫現場で捕らえられ、イエスの元に連れてこられました。告発者たちが「律法によれば石打ちで処刑しなければなりませんが」と迫ったとき、イエスは一言「罪がない者から石を投げよ」と語りました。それを聞いた告発者たちは一人、また一人と去って行きました。

告発者や野次馬たちが立ち去りイエスと彼女だけになるまでに、どれほどの時間がかかったのかはわかりません。その間彼女は、石や罵声がいつ飛んでくるかという恐れ、不倫現場を目撃されてしまった恥、何より「罪を犯してしまった」という罪悪感から、座り込んだまま動けなかったでしょう。顔を上げることもできなかったのではないかと思います。一方、イエスは恥と罪悪感に苦しむ彼女を直視することもせず、「身をかがめて、地面に何かを書き」ながら、まさに適当な距離感で寄りそっておられました。そして彼女の心が開くのを待って「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。もう決して罪を犯してはならない」とみことばをかけられました。

あなたの隣に座り込んで待つイエス

クリスマスに私たちと同じ人間としてお生まれになったイエス・キリストは、傷んだ葦(あし)を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともないお方です(イザヤ42:3)。罪を見過ごすことはなさいません。しかしそうせざるを得なかった弱さに共感してくださいます。私たちが罪悪感や悲しみで打ちひしがれ座り込んでしまうとき、イエスの方から私たちの苦しみのただ中に降りて来てくださいます。そして私たちがみことばを聴いて立ち上がれるまで、隣に座っていてくださいます。それがどれほど長い時間であろうとも。

その名はインマヌエルと呼ばれる。訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。(マタイ1:23)

考えよう
拭い去れない罪悪感や失敗を抱えていませんか。またそのような人とどんな距離感で接していますか。

祈ろう
罪を犯してしまい痛みに打ちひしがれるとき、あなたが待っていてくださることを思い出させてください。また、心痛める友にあなたのように寄りそう者と変えてください。