ウォーリーをさがせ
絵本シリーズ「ウォーリーをさがせ」を読んで、ごちゃごちゃしたページの中に隠れている「ウォーリー」を見つけた我が子の喜びを共有するのは嬉しい体験です。
信じるに足るお方
友人が涙ながらに「もう誰も信じられない。信じるたびに傷つけられるから」と言いました。別れたばかりのボーイフレンドが彼女の悪口を言いふらしていると言うのです。私は憤慨しました。友人は、子どもの頃の辛い経験を乗り越えて再び人を信じようとしていたのに、裏切られたのです。
あわれみの期待
友人が良くない選択を繰り返すので困っていると祈りのパートナーに話すと、彼女は「私たち皆のために祈りましょう」と優しく言いました。「私たち?」と眉をしかめると、彼女は答えました。「ええ。あなたはイエスの聖(きよ)さが私たちの物差しだといつも言うでしょ。それなら、自分の罪と他人の罪を比較すべきでないわ。」私は「痛いことを言うわね。でも正しい。私の上から目線や霊的プライドも、同じように罪だもの」と答えました。そして、彼女のことを話しているのだから、私たちは陰口を言っている…それは罪だ、と気づき、私は「どうぞ祈って。私たちみんなのために」と頭を垂れながら言いました。
嫉妬につける薬
週初めにふたりの孫の世話を引き受けました。私は、やってきた孫たちを抱きしめて「週末は何をしたの?」と尋ねました。3才のブリッジャーは息をはずませて、叔父の家に泊まってアイスクリームを食べ、メリーゴーランドに乗り、映画を見たと言いました。ふたりは別行動だったと聞いていたので、5才のサムエルにも尋ねると「キャンプ」と言いました。「楽しかった?」と聞くと、「普通」とそっけなく答えました。サムエルは「となりの芝生」体験をしたのです。弟が嬉しそうなのに嫉妬して、父とのキャンプが楽しかったことをすっかり忘れていました。
神を擁護する
神を否定するステッカーを貼った車を元無神論者の大学教授が見て、この車の持ち主はキリスト者を怒らせたいのだろうと思いました。しかし、キリスト者の怒りは無神論者の思考を正当化するだけだそうです。
真の友であること
詩人サム・ウォルター・フォス(1858-1911)は「道路わきの家」と題した詩で「道路わきの家に住ませてもらえるなら、皆の友人になりたい」と書きました。私も同感です。私は、人にたたかれ、不当に扱われ、傷ついた旅人、幻滅という人生の重荷を負っている旅人の友となり、彼らが元気を回復し爽やかに旅をつづけて行けるように、温かくもてなしてあげたいのです。私は、彼らの問題を解決することも、彼らの弱点を直すこともできません。しかし、彼らを祝福することはできるはずです。
種を蒔く
ある人からメールが届きました。それには「あなたのお母さんは、 1958年、私が小学1年生の時の担任でした。彼女は優しい先生でしたが、厳しくもありました。詩篇23篇を暗記させ、みんなの前で暗唱させました。私は嫌でたまりませんでしたが、それが1997年にクリスチャンになるまで、私と聖書との唯一のつながりでした。詩篇23篇を読むと先生の思い出がよみがえってきます」とありました。
伝えずにはいられない
裁判の証人は傍聴人とは違います。彼らは判決を左右する裁判の積極的な参加者です。同じことがキリストの証人にも言えます。私たちは、イエスの死と復活という絶対的に重要な真実に関する積極的に証言する参加者であるべきです。
赦すべきか
教会堂の掃除に行くと向こうで泣いている人がいました。私に意地悪をしたことのある人です。それで、気づかない振りをして掃除機をかけました。嫌われているのに声をかける必要は無いでしょう。しかし自分がどれだけ神に赦されたのかを思い出し、聖霊に促されてそばに行くと、彼女の赤ちゃんが何か月も入院していると言うのです。私たちは抱き合って泣き、赤ちゃんのために祈りました。そして今では性格の違いを乗り越えて仲良くなりました。