イエスの元に走る
パリを旅行中、ベンと友人たちはある美術館に行きました。ベンの専攻は美術ではありませんでしたが、ウジェーヌ・ビュルナンの『復活の朝、墓へと走る使徒ペテロとヨハネ』を見て畏敬の念を抱きました。ペテロとヨハネの表情や手の位置は、言葉は無くても多くを物語っています。彼らの立場になって、その心の興奮を感じなさいと鑑賞する人々に呼びかけています。
赤い斑点
スコットランド国立美術館を訪れた時、オランダの画家フィンセント・ファン・ゴッホの「オリーブの木」の力強い筆さばきや鮮やかな色使いに感動しました。ゴッホはオリーブの木の絵を何枚も描きましたが、多くの歴史家は、イエスのゲツセマネの園からインスピレーションを得たに違いないと語ります。私がその絵の中で特に注目したのは、古木の景色のあちこちについた小さな赤い斑点でした。
人に仕えるという挑戦
ディアビオンはまだ13歳でしたが、人助けに挑戦しました。夏休みに50カ所の芝刈りを無償で行おう、と子どもに呼び掛ける人がいると聞いたのです。それは、帰還兵やシングルマザー、障害者の家庭、それ以外でも助けが必要な人に仕えることです。この運動を始めたのは、米国50州で50カ所の芝刈りをした人で、労働倫理や地域に恩返しすることの大切さを教えていました。夏休みの楽しみ方には選択肢がありますが、ディアビオンは人に仕えることを選び、やり遂げました。
ほんの一部では不十分
自分の何かを捨てて行くという気分のときがありますが、南極圏の町、ビジャ・ラス・エストレージャスに住むには、文字通り、そうしなくてはなりません。病院まで千キロの極寒の地で虫垂炎は致命的なので、引っ越す前に必ず、虫垂を切除する規則なのです。
イエスにとどまる
ジュノという保護猫をもらいました。大人の黒猫です。正直なところ、私はネズミを退治したかっただけでしたが、家族はペットが欲しかったのです。保護施設の担当者は、最初の週は必ず同じ時間に餌をあげるように指導しました。ここが自分の家であり、必ず餌をもらえる安全な場所だと学ばせるためです。そうすれば、仮に徘徊(はいかい)しても、必ず帰って来るからです。
神が私を強くする
サッカー選手のクリスチャン・プリシッチは、選手生命を脅かすようなけがを何度もしました。チャンピオンズリーグ準決勝の先発メンバーに選ばれず落胆していた時に、神がご自身を現してくださったと言います。「いつもどおり、神に助けを求めると、神は力を下さいました。私はいつも主が共におられるように感じます。その感覚無しに何かをするなど考えられません」と語りました。プリシッチ選手は結局、途中出場し、彼の巧みなプレーで勝利に貢献し、チームは決勝戦に出場しました。彼はここから貴重な教訓を得ました。それは、自分の弱さは、神が計り知れない御力を現される機会となる、というものです。
青石の鐘
青石は多種多様で、たたくと美しい音色を放つものもあります。マインクロホグというウエールズの村がありますが、その名は「鐘」または「鳴り響く石」を意味し、18世紀まで青石製の教会の鐘を使っていました。興味深いことに、英国の遺跡ストーンヘンジは青石で造られており、元々の目的は音楽だったのではと考える人もいます。その独特の音色のために、約300キロも遠方のマインクロホグ近郊から運ばれたと主張する研究者もいます。
恨みから赦しへ
世を恨もうと思っていたわけではありません。けれども、肌の色のせいで嫌な経験をたくさんしました。「いなくていい人」と学校の先生から言われたこともあります。当然、傷つきました。イエスを信じていても傷つきます。傷の痛みは恨みへと変わり、「苦い根が生え出て悩ませ」るのです(ヘブル12:15)。
神を愛し、神に愛されていると信じているつもりでしたが、心に募った恨みが、神と私との間に溝を作りました。
人種差別に憤まんする私には、「すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません」(14節)、「無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい」(エペソ4:31)といった聖書の教えは、届きませんでした。そんなことができるのか、と疑う私に、神は3つの方法を示してくださいました。
恨みつらみを神に差し出す。恨みを心から締め出してくださいと、神にお願いしましょう。神は「赦しなさい」と答えられます。どうすれば赦せるでしょう。
神に導いていただく。赦しは、行為ではなく、道のりです。神学者ルイス・スメデスによると、赦しは、加害者を放免することではなく、「癒やしを受け入れる」という表明です。どのように癒やしを受け入れるのでしょう。
聖霊の偉大な力に頼る。そうすれば、内なる聖霊の働きが、証しとなります。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、……地の果てまで、わたしの証人となります」(使徒1:8)。
神が私たちのうちに働いてくださるとき、主が恨みの根から美しい花を咲かせてくださいます。神の愛は、私たちの「土壌」を手入れし、罪深い恨みを恵みに変えてくれます。
神が赦してくださったように人を赦しなさい、と聖書は教えます。赦せないと思うときでもその教えに沿って生きるには、どうすればよいでしょう。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 きよさは見かけではない
8日 イエスの元に走る
15日 和解の関係
22日 赦しの力
きよさは見かけではない
ホセはイエスを受け入れると、弟の通う教会の礼拝に行きました。弟は兄の顔を見るなりうつむきました。Tシャツから入れ墨だらけの両腕がむき出しだったからです。それはホセの過去を表していたので、弟は、長袖のシャツを来て出直してほしいと言いました。ホセは突然、自分は汚れていると感じました。近くで2人のやり取りを聞いていた人が、ホセを牧師のところへ連れて行き、事情を話しました。すると牧師はほほ笑んで、自分のシャツのボタンを外しました。すると胸には大きな入れ墨。彼の過去を示していました。牧師は、神は内側からホセをきよめられたのだから、腕をおおう必要はないと言いました。