Category  |  信仰/信頼

着地点

アフリカのサバンナに生息するインパラの跳躍は、高さ3メートル、幅10メートルに達します。肉食獣の攻撃をしのぎ生き延びるために不可欠な能力ですが、動物園で見かけるインパラは、高さがたった1メートルほどの壁に囲まれて暮らしています。そんな飼育が可能な理由は、着地点が見えなければジャンプできないからです。壁の向こうに何があるか見えないと、インパラは跳べないのです。

大胆に立つ

イリノイ州のある町では犯罪の40%が家庭内での暴力です。これは教会員にも関わる問題ですが、なかなか言い出せることではありません。そこで、地域の牧師たちが立ち上がりました。暴力の兆候を見抜くための講習を受けたり、この問題に取り組むNPOを支援したりして、見て見ぬふりはしない、主にあって勇敢に立ち向かう、と示しました。「私たちの祈りと思いやり、身に着けた知識や技術、ネットワークは、大きな変化をもたらしています」とひとりの牧師は語っています。

自分のものにする

米国で2002年に始まった「アメリカン・アイドル」というテレビ番組は、素人が人気曲を歌って優劣を競います。有名な歌を完璧に歌いこなした上に個性が光っていると、審査員のランディ・ジャクソンは、「この歌を自分のものにしたね」と称賛を送ります。「自分のものにする」とは、完全な習得と創造性の双方が備わっていることで、歌い手はそれを舞台の上で証明したのです。

信仰の筋トレ

動物園に行ったとき、ナマケモノのおりのそばで休憩しました。ナマケモノは逆さにぶら下がって動かず満足そうです。私は溜息をつきました。私は健康上の理由から、じっとしていると辛く、せかせかと動かないわけにはいかないのです。そして、常に疲れている自分にうんざりしています。しばらく眺めていると、ナマケモノは、片方の腕を伸ばして近くの枝をつかみ、また動かなくなりました。静止には筋力が必要です。もし私が、ナマケモノと同じくらいゆっくり動いたり、じっとしていようとしたりしたら、相当な筋力がいるでしょう。辛い日、憂うつな日、私が神を信頼するには、超自然的な力が必要なのです。

十字架の意味

インド中部でキリスト教徒と他宗教の人々の間で緊張が高まったことが20世紀半ばにありました。その時、屋根の十字架を壊すように言われて、3階建ての建物によじ登った若者がいましたが、目的を果たす前に落ちて大けがをしました。病院に運ばれると、同室の患者はキリスト者でした。

子どものように

ずいぶん昔のことですが、就寝前の祈りの後、2歳の娘が「ママ、イエスさまはどこにいるの」と尋ねました。妻は驚いて「天国よ。それから、どこにでもよ。今ここにもおられるわ。お願いすれば、あなたの心の中にもいてくださるのよ」と言いました。「イエスさま、私の心にいて欲しい」と娘。「いつかお願いしましょうね」と妻が応じると、娘は「今、お願いしたい」と答え「イエスさま、私の心に来て、いっしょにいてください」と祈りました。それが彼女の信仰の始まりでした。

良い信仰、悪い信仰

信仰を持つべきだと言われますが、どういう意味でしょう。どんな信仰でも良いのでしょうか。「自分自身を信じなさい。自分の内には、どんな障害よりも優れたものがあると信じなさい」とは、一世紀前に積極思考の人が書いた言葉です。聞こえは良いですが、現実はそれほど甘くありません。私たちは、自分より大きなものを信じなくてはなりません。

敗北それとも勝利?

今日6月18日は、現在のベルギーにあるワーテルロー近郊で、フランス皇帝ナポレオン一世の率いる仏軍が、ウェーリントン公爵率いる連合軍に敗れた日です。1915年のそのとき以来、英語で「ワーテルローに会う」と言うと、「自分よりも強い人、または大きすぎる問題に出会って打ち負かされる」という意味になりました。

知っていること、行うこと

中国の哲学者、韓非子は人生について、「事実を知るのは易しい。事実に基づいていかに行うか、それが難しい」と考察します。イエスのもとに来た金持ちには、この問題がありました。彼はモーセの律法を知っていて、小さい頃から守っていると言います(マコ10:20)。 しかし、それに加えて何か聞けるかもしれない、と思ったのでしょう。「尊い先生、永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか」と尋ねました(17節)。ところが、イエスの返答にがっかりしました。持ち物を売り払って貧しい人たちに施し、自分について来なさいと言われたのです(21節)。